みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

天上にあるすべての霊的祝福

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天井にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)

 

今回から、『エペソ人への手紙』に入る。

いつものように、最初から最後まで"ザッと読み"してみた。

数節ごとに区切って読む“精読”も良いが、通して読む“ザッと読み”も良い。

執筆事情や、もっとも伝えたい要点が見えてきやすいのだ。

 

エペソ書は、手紙というよりも論文的な色彩が強い。

パウロが伝えている「みこころの奥義」(9)について、網羅的にまとめている。

そんな中、手紙らしい、当時の事情を伺わせる箇所もわずかだがある。

たとえば、次の箇所だ。

 

ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。(エペソ3:13)

 

この手紙は、ローマの獄中で書かれた。

「苦難」とは投獄されるに至ったできごとや投獄そのものを指していると思われるが、そういう辛い状況に自分があるからといって落胆しないようにと励ますために、パウロはこの手紙を書いた。

 

その励まし方は、独特だ。

キリストの救いに入れられた者がいかに驚くべき祝福にあずかっているか、どんなに確実ですばらしい約束を得ているか、神のご計画がいかにほめたたえるべき偉大なものであるか。

それらを語ってから、「ですから、落胆することのないように」と言っているのだ。

 

このエペソ書のスタンスは、ローマ書の次のみことばに集約されている。

 

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。(ローマ8:18)

 

パウロは、1章3節で「天上にあるすべての霊的祝福」について証しした。

「祝福してくださいました」と、過去形になっている。

 

すでにその圧倒的な祝福の中に、わたしたちはある。

ただそれは「霊的祝福」であり、信仰の目をもってのみ見ることができる。

だから、パウロは祈る。

 

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(17-19)

 

敵の大群に囲まれたとき、肉の目でしか見ていなかった召使いはうろたえた。

しかし、預言者エリシャは動じなかった。

彼は、共にある主の軍を信仰の目で見ていたからだ。

わたしたちもまた、エペソ書を通して、自分がどれほどの「霊的祝福」にあずかっているのかを見ることができるよう、祈ろう。

 

そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(2列王記6:17)

 

 

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