みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神の家族なのです

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、生徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)

 

2章には、「あなたがたは、○○です(でした)」という表現がたくさん出てくる。

まとめてみよう。

 

【かつては・・・】

  • 自分の背きと罪の中に死んでいた者(1)
  • 生まれながら御怒りを受けるべき子(3)
  • 異邦人(11)
  • 無割礼の者(11)
  • 約束の契約については他国人(12)
  • 望みもなく、神もない者たち(12)
  • 寄留者(19)

 

【今では・・・】

  • 神の作品(10)
  • 聖徒たちと同じ国の民(19)
  • 神の家族(19)
  • 神の御住まい(22)

 

キリスト者として、いま、どちらの自己認識に立っているだろうか。

言うまでもなく、神は、後者、すなわち「神の作品」「聖徒たちと同じ国の民」「神の家族」「神の御住まい」という認識に立つことを望んでおられる。

 

パウロは、言う。

 

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(10)

 

悪霊どもは、言ってくるだろう。

「お前が神の作品とは笑わせる。とんだ失敗作じゃないか」。

しかし、悪魔と悪霊どもははじめから嘘つきであることを覚えておこう。

そして、神のみことばの真理に立とう。

「私は、神の作品です」と。

 

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、生徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)

 

わたしは「神の作品」であるだけでなく、「神の家族」だ。

もし、わたしがよそ様の家に「ただいま」と勝手に入り込んだら、即たたき出されるか、通報されるだろう。

家族でも何でもないのだから、当たり前だ。

 

しかし、自分の家ならば、誰からもとがめられることなく、当たり前のように受け入れられる。

そこには、自由があり、安らぎがあり、守りがあり、無条件の愛がある。

 

ぼろぼろの放蕩息子は、謝罪の言葉も言えないうちに、父に抱きしめられた。

彼が「家族」だったからだ。

 

わたしたちのキリストにある新たなアイデンティティーは、信仰によって受け取るものではあるが、何よりもたしかな事実だ。

少なくとも、聖書はそう告げている。

大胆に、みことばに立とう。

 

「ところが父親は、しもべたちに行った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

 

 

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