みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

最も聖なる信仰

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。(ユダ20)

 

『ユダの手紙』も、一章だけの短い手紙だ。

 

愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。(3)

 

「信仰のために戦う」とは、のっぴきならない事態だ。

何があったのか?

 

それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。(4)

 

新約聖書の手紙もこの『ユダの手紙』で最後だが、こうして読んでくると、ほとんどの手紙が、教会をかき乱す者たちを警戒するよう注意喚起するために書かれていることが分かる。

それほど、誤った教え、異端、分裂、罪に対する妥協などの危険が、初代教会の時点ですでにあったということだ。

 

ユダは、「不敬虔な者たち」に対するさばきについて述べたあと、冒頭のみことばを書いた。

 

あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。

 

これはすなわち、「信仰のために戦う」ことでもある。

 

ペテロの手紙でも、次のみことばを見た。

 

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。(2ペテロ3:11)

 

ここで、「最も聖なる信仰とは何ぞや?」などと問う必要はないだろう。

クリスチャンであれば、胸に手を当てて考えれば分かるはずだ。

 

聖霊によって祈りなさい。

 

大事なことは、かならず御霊が教えてくださる。

そして、自分のうちに聖なるものがまったく無いことにも気づかされる。

ここが「聖なる信仰」の出発点だ。

 

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ7:24-25)

 

『ユダの手紙』では、感謝すべきことに、私たちを神が守られるとくり返し語られている。

 

・・・父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。(1)

 

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、(24)

 

神の守りに信頼しながら、「最も聖なる信仰」の上に自分自身を築き上げるよう励もうではないか。

 

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(ヨハネ17:14-15)

 

 

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