みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

召しと選びを確かなものとするように

ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。(2ペテロ1:10)

 

『ペテロの手紙第一』につづいて、『ペテロの手紙第二』に入る。

教会の信者たちは、信仰から離れてしまう危険があった。

ひとつは厳しい試練によって、もうひとつは偽教師たちの誤った教えによってだ。

 

第二の手紙は、後者に対する警告となっている。

異端的教えに惑わされて敬虔さを失い、偽教師たちの放縦に倣うことのないようにと、ペテロはくり返し語っている。

 

愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。(2ペテロ3:1)

 

ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。(2ペテロ3:17)

 

冒頭のみことばでは、「自分たちの召しと選びを確かなものとするように」とすすめている。

「召しと選びを確かなものとする」とは、どういうことだろうか。

直前には、こうある。

 

だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(5-7)

 

そうなればいいなというようなものではなく、「あらゆる熱意を傾けて」取り組むべき課題とされている。

パウロの言葉を思い出す。

 

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)

 

ペテロは後の章で、天地の終わりについて述べたあと、次のように言っている。

 

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。(2ペテロ3:11)

 

「どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならない」か、わたしは微塵もわかっていない気がする。

想像よりもはるかに高く、聖い敬虔さに違いない。

ペテロの言葉を、重く、重く、受けとめたいと思う。

 

その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(4)

 

 

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