みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

祝福を受け継ぐために召された

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(1ペテロ3:9)

 

悪に対して悪を返さず、「キリストにある善良な生き方」を示すように努めよ、これがこの手紙の主要なテーマだ。

 

ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(15-16)

 

わたしたちは、「祝福を受け継ぐために召された」とある。

キリストの救いにあずかり、いまもこの世に置かれているのは、まさにそのためなのだ。

 

きょう、わたしは「祝福を受け継ぐ者」であるだろうか。

わたしにふれる人は、主の祝福にふれることができるだろうか。

眼差しにより、言葉により、手により、わたしは「祝福を受け継ぐ者」であるだろうか。

 

わたしを悪く言う人に対しては、どうだろうか。

悪に悪を返さず、祝福するなどということが、できるだろうか。 

 

そんなときは、イエスさまの姿を思い出そう。

 

キリストは・・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(1ペテロ2:22-23)

 

パウロも、ローマ書でこう書いている。

 

次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:20-21)

 

悪に悪を返すことは、悪に負けることだ。

善をもって悪に打ち勝つこと。

これは、たんなる"無抵抗主義”よりもはるかに強い力といえるだろう。

 

しかし、生まれながらの肉の性質では、とてもできるものではない。

「祝福を受け継ぐ」生き方ができるよう、主に祈ろう。

 

「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」(10-12)

 

 

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