みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

彼が呪いを愛したので

彼が呪いを愛したので、それは自分に返って来ました。祝福を喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。(詩篇109:17)

 

「呪」と「祝」の字は、よく似ているが意味は真逆だ。

口へんは、諸説あるようだが、人間を表すとする解釈が主流のようだ。

示(しめす)へんは、神に関するものの意味だという。

神、礼、祈、祷、祠など。

 

109篇全体は、言わば“呪いの祈り”とも言うべき内容だ。

キリスト者としてはどう読めばいいのか難しいが、詩篇におさめられているからには、主のみこころにかなう言葉と受け取るべきだろう。

 

私の賛美である神よ。沈黙しないでください。彼らは、邪悪な口と欺きの口を私に向けて開き、偽りの舌をもって私に語るからです。彼らは、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私に挑んできます。私の愛に代えて、彼らは告発で応じます。私は祈るばかりです。彼らは、善に代えて悪を、愛に代えて憎しみを、私に返しました。(1-5)

 

「口は災いのもと」というが、たしかに、人を象徴する“口”は呪われるもとでもある。

ここからの詩人の祈りは、なかなかに激しい。

 

どうか、彼に対して悪しき者を遣わし、告発する者が、彼の右に立つようにしてください。・・・彼の日数はわずかとなり、その務めは他人が取り、子どもたちはみなしごとなり、妻はやもめとなりますように。彼の子らは、さまよいながら物乞いをし、荒れ果てた家を離れ、施しを求め続けますように。(6・8-10)

 

このような親族全体が呪われるようにという祈りが、まだまだ続く。

いや、呪われるようにというよりも、当然の報いを与えてください、という祈りだ。

 

読みながら、ふと思った。

旧約時代と新約時代の大きな違いのひとつは、“悪者に対するあり方”ではないだろうか。

 

旧約においては、悪しきわざには悪しき報いが与えられるのが当然であり、それを求めることは何ら悪くない。

しかし新約においては、悪者のため、敵のために祝福を祈り、彼を愛せと主イエスは教えられた。

 

「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43-44)

 

そしてそのみことばのとおりに、ご自身、十字架の上で祈られた。

 

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)

 

この祈りを境に、大きく変わったのだ。

敵を呪うことは簡単だ。

しかし、敵のために祈ることは、生まれながらの自分にはできない。

御霊の助けによるしかない。

 

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(1ペテロ3:9)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村