人による救いはむなしいのです
どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいのです。神にあって私たちは力ある働きをします。神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます。(詩篇108:12-13)
108篇はユニークな詩篇だ。
他の詩篇の一部をくっつけたかたちになっている。
前半(1~5節)は57篇7~11節を、後半(6~13節)は60篇5~12節を、それぞれほぼそのままもってきている。
どうしてこうなったのだろう?
讃美歌として、その箇所がよほど人気があったのだろうか?
ヘブル語だと何か深い意味が見つかるのだろうか?
いずれにせよ、ときどきあるこのような“重複”は、それだけ神からの重要なメッセージがあると考えるとよい。
ただ今回は、冒頭にあげた最後の2節について考えてみたい。
ここに、こうある。
人による救いはむなしいのです。(12)
このみことばを見て、「そうだ、人は頼りにならない、神のみが頼るべきお方だ」と解釈するのは簡単だ。
しかし、どうだろう。
人にまったく頼ることなく、神だけに信頼して歩むことができるだろうか。
窮地に追い込まれたときに、人の助けを求めるのは不信仰なことだろうか。
祈りに専念せずに、あれこれと画策するのは人間的な知恵に頼ることなのだろうか。
わたしたちは、エリヤのようにカラスに養われることを待つべきなのだろうか。
言葉のうわべだけを見るならば、そんなふうに悩んでしまいかねない。
今回考えさせられたのは、次のことだ。
「私は神だけに頼り、人間的なものには頼りません」という一見立派な信仰の態度の裏に、自己主張・自己アピールのようなものが隠れていないだろうか。
わたし自身、自分の内にこのようなものが潜んでいることを告白しなければならない。
「神はすごいお方だ」という言葉の背後に、「自分の信仰はすごいのだ」という主張が隠れている。
そのうえで、「私は神にだけ拠り頼む、人には頼らない」と言うとすれば、その当人の顔はどこか頑なだ。
そのような“証し”は、人を突っぱね、遠ざけてしまう。
自分の言動の奥底に、どんな思いが潜んでいるか。
特に、自己主張や、他者を見下す傲慢さが無いかどうか。
主よ、どうかそのような醜い心からわたしを解放してください、と切に祈りたいと思う。
神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)