みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主を恐れ、主の道を歩む

幸いなことよ、主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。(詩篇128:1)

 

わたしは、『まんが日本昔ばなし』を見て育った世代だ。

あのなかにはかならず、“正直者の働き者”が出てきた。

それを意地悪な連中がいじめるのだが、最終的には彼らが痛い目にあうのがお決まりだ。

 

この128篇にも、“働き者”が出てくる。

 

あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。(2)

 

これは、昨日読んだ127篇のみことばと、一見対照的だ。

 

あなたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。(詩篇127:2)

 

昨日も書いたように、これは、主から離れた生き方はすべてがむなしいと言っているのであって、けっして“怠慢のすすめ”ではない。

きょうの2節のみことばも、“主にあって”「その手で労した実りを食べる」なら、それは幸いだということだろう。

 

新約聖書では、パウロの次のような言葉もある。

 

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。(1テサロニケ4:11)

 

たしかウォッチマン・ニーだったと思うが、農業や漁業のように自分の手をもって糧を得る仕事ほど神のみこころにかなっており、そこから離れるほどみこころにかなわないものになる、といった意味のことを書いていた。

社会が多様化した現代では一概には言い切れないものの、なるほど一理ある。

そう考えると、クリックひとつで大金が動くマネーゲームが席巻する現代は、ますます神のみこころから離れていると言えるかもしれない。

 

以前にも取り上げたことのあるトルストイの『イワンのばか』では、イワンが治める国に一つだけ決まりがあった。

それは、「手にたこのある者」だけが食卓につける、というものだ。

 

仕事とは、何だろう。

基本はやはり、主を信頼して手で労し、実りを得ることなのだと思う。

 

見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。(ヤコブ5:7)

 

 

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