みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主が家を建てるのでなければ

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127:1)

 

127篇は、「ソロモンによる」とある。

このように明記してあるのは、127篇だけである。

 

ダビデの子ソロモンは、神の宮を完成させ、富と叡智を世界中に知られた大王だ。

その彼が、「主が家を建てるのでなければ・・・むなしい」「主が町を守るのでなければ・・・むなしい」と言っている。

だれよりもソロモン自身が、いっさいは自分の知恵や力によるのではないと、わかっていたのだろう。

 

あなたがたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。(2)

 

もちろんこれは“怠慢のすすめ”ではない。

しかし、どんなに労苦して糧を得たとしても、主を忘れ、主と切り離された生き方をしているなら、すべてはむなしい。

そう言いたいのではないだろうか。

 

主は愛する者に眠りを与えてくださる・・・

 

ソロモンという名はダビデがつけたが、主は預言者ナタンを通じて「エディデヤ」という名も与えられた。

「主に愛された者」という意味だ。(参照→2サムエル12:24-25)

 

問題は、主に愛される者であるかどうかなのだ。

言うまでもなく、すべての人は主の愛の対象だ。

しかし主は、ある人たちには特別に愛を注がれる。

エスさまの約束を見よう。

 

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(ヨハネ14:21)

 

3節以降では、家庭の祝福が語られる。

 

見よ、子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬。若いときの子どもたちは、実に、勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ、矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき、恥を見ることがない。(3-5)

 

子どもが生まれたときは、まさに「賜物」として感謝したのに、いつの間にかさまざまな心配や不安に苛まれている。

もう一度、「子どもたちは主の賜物」として受け取ろう。

 

「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」(マタイ6:31)

 

このイエスさまのことばをそのまま子育てに当てはめると、「何を食べさせようか、何を飲ませようか、何を着させようかと言って、心配しなくてよいのです」となる。

ここでも、あれこれと労苦することはむなしい。

主が育ててくださるのでなければ。

 

あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。(伝道者11:5)

 

 

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