みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

手がきよく、心の澄んだ人

だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。(詩篇24:3-4)

 

24篇の冒頭で、ダビデはこう歌う。

 

地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。主が、海に地の基を据え、川の上に、それを堅く立てられたからだ。(1-2)

 

この全世界のものは、主のもの。

主がその創り主であるから。

当たり前といえば当たり前だが、いったいこの事実を、わたしはどれほど信じているだろうとはっとした。

 

聖書の啓示は、つねにこのようだ。

人が信じようと信じまいと、認めようと認めまいと、証明できようとできまいと、関係なく、「これが事実である」とずばりと示す。

 

全世界の創造主こそがまことの神であることは、当然である。

聖書はいたる箇所で、そう啓示している。

西洋も東洋もない。

神は唯一だ。

 

この神の山にだれが登り得るのか、とダビデは問う。

「手がきよく、心の澄んだ人」が、それだと。

 

自分で「私は心の澄んだ人です」と言う人は、「私は嘘つきです」と言っているようなものだ。

真に「心の澄んだ人」とは、自らの汚れに打ちひしがれて、「こんな罪人の私をあわれんでください」と心から祈る人だろう。

 

と同時に、汚さを認めればいいんだ、と開き直るようでもいけない。

エスさまは、こう言われた。

 

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8)

 

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」(マルコ10:14)

 

また、へブル書の著者はこう書いている。

 

すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

 

7節からは、王なる主を迎える賛歌となっている。

初臨のイエスさま、再臨のイエスさま、どちらにも当てはまりそうな句だ。

 

門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。(7-8)

 

「強く、力ある主」は、エルサレムに入城される際、ろばの子に乗られた。

 

このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って、荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:4-5)

 

万物の創造主は、人の姿をとって子ろばに乗り、人類の罪を背負って十字架刑を受けられた。

考えられないことであるが、“これが事実”なのだ。

 

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ2:6-8)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村