どうか、あなたの光とまことを送り
どうか、あなたの光とまことを送り、それらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山、あなたの住まいへと、それらが私を連れて行きますように。(詩篇43:3)
43篇は、42篇の続きになっている。
最後の5節は、42篇11節とまったく同じだ。
わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(5)
「待ち望む」という言葉は、英語の聖書では、trust in、hope in、wait for、などと訳されている。
「待つ」ことは、信頼して、期待して、待つことにほかならない。
しかし、それがあまりに長引くとき、わたしたちは疲弊してくる。
箴言にも、
期待が長引くと、心は病む。(箴言13:12)
と、あるとおりだ。
詩人も、そのような疲れを覚えながら、神に訴えた。
神よ、私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から、私を助け出してください。(1)
私の祈りは聞かれず、悪者たちは悠々と生き、かつ私を攻撃する。
なぜ、あなたは私を退けられたのですか。なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回るのですか。(2)
信仰とは「なぜ」と言わないことだ、と聞いたことがある。
たしかにそれは、信仰の神髄だろう。
とはいえ、生身の人間として、「なぜ」と問いたくなるのも事実だ。
詩人のすぐれたところは、それを主に向けて告げたことだと思う。
どうか、あなたの光とまことを送り、それらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山、あなたの住まいへと、それらが私を連れて行きますように。(3)
なんとすばらしい祈りだろう。
主の光とまこと、慈愛に満ち、きよく麗しい、主の光とまこと。
それらに導かれたい、主の山、住まいへと導かれたい、と祈っている。
こうして、私は神の祭壇に、私の最も喜びとする神のみもとに行き、竪琴に合わせて、あなたをほめたたえます。神よ、私の神よ。(4)
主の祭壇、主のみもとで主をほめたたえたいのです、わが主よ。
苦しみながらもこのように祈る聖徒を見て、主が放っておかれることがあるだろうか。
どんな状況にあろうとも、わたしたちもまた、これらの祈りをわが祈りとして、御前にささげようではないか。
いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)