みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

私たちの神、主の御名を呼び求める

ある者は戦車を、ある者は馬を求める。しかし私たちは、私たちの神、主の御名を呼び求める。(詩篇20:7)

 

20篇は「ダビデの賛歌」(表題)とあるが、こう始まっている。

 

苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名が、あなたを高く上げますように。(1)

 

ここにある「あなた」とは、最終節からも「王」であることがわかる。

 

主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに答えてください。(9)

 

これがだれを指すのかは、よくわからない。

サウル王なのか、息子アブサロムなのか、はたまた自分自身なのか。

ともかくダビデは、王のためにとりなしの祈りをささげる。

 

あなたの心の望みを、主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を、遂げさせてくださいますように。私たちは、あなたの勝利を喜び歌い、私たちの神の御名により、旗を高く掲げます。あなたの願いのすべてを、主が遂げさせてくださいますように。(4-5)

 

読むうちに、メシア預言のようにも見えてくる。

またはダビデ、もしくはキリストからの、わたしたちへの祝祷のようにも読める。

そういう意味では、不思議な詩篇だ。

 

今、私は知る。主が、主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって、聖なる天から、その者に答えてくださることを。(6)

 

キリスト・イエスを信じる者には、聖霊が注がれている。

神はその者を救い、答えてくださる。

 

そして、冒頭の7節だ。

「戦車」や「馬」は、力の象徴だ。

権力、戦力、経済力、支配力、財力、体力、知力など、力にはさまざまなものがある。

人々は、それらに惹かれ、それらを追い求めようとする。

 

そんななかで、ダビデはこう言い切った。

 

しかし私たちは、私たちの神、主の御名を呼び求める。(7)

 

大きな声で「アーメン」と唱和しようではないか。

ダビデは、多くの“力”を失った人でもあった。

その「苦難の日」(1)を知る者として、彼はこう言い切ったのだ。

 

「呼び求める」という言葉は、「依り頼む」とも訳せるようだ。

きょう、わたしたちは、何を呼び求め、何に依り頼もうとするのだろうか。

 

彼らは膝をつき、倒れた。しかし私たちは、まっすぐに立ち上がった。(8)

 

 

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