わがたましいよ、なぜ、おまえは
わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩篇42:11)
42篇は、非常に美しい、よく知られる表現ではじまる。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(1)
ここで興味深いのは、「私のたましいは」慕いあえぐと言っているのであって、「私は」ではないことだ。
詩篇には「わがたましいよ」とか「私のたましいは」という表現が多いので、なんとなく読み過ごしていたが、よく考えたら不思議な言葉だ。
「わがたましい」「私のたましい」は、この42篇に6度も出てくる。
このとき詩人は、苦難の中にあった。
昼も夜も、私の涙が、私の食べ物でした。(3)
あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波はみな、私の上を越えて行きました。(7)
そこに向けて、敵対する者たちから侮蔑の声が浴びせられる。
「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。(3)
私に敵対する者たちは、私の骨を砕くほどに、私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。(10)
彼自身も、神への信仰が激しく揺さぶられた。
私は、わが巌なる神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回るのですか。」(9)
神を信頼して待ち続けても、事態は何も変わらない。
神は忘れておられるのではないか。
自分の祈りは聞かれていないのではないか。
そんな思いを打ち消すかのように、彼は自らを、いや自らのたましいを叱咤する。
わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5)
人は励まされるよりも、励ますことで元気になると聞く。
詩人は、「わがたましいよ」と擬人化して語りかけることで、力を新たにしたのではないか。
「私」が大波に飲み込まれるだけなら、自暴自棄になりかねない。
しかし、「私」が「わがたましいよ」しっかりするのだ、と叱咤することで、一歩距離ができ、冷静さを取り戻す。
「わがたましい」は、主を愛し、喜び、賛美し、主の道をまっすぐに歩みたいはずではないか。
大波に飲まれてわけがわからなくなりそうなときこそ、このことばを口にしよう。
わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩篇42:11)