みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

弱っている者に心を配る人

幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。(詩篇41:1)

 

「おまえは弱っている者に心を配っているか。自分の好むことばかり追い求めているのではないか」

いきなり、そう問われた気がした。

 

ダビデは病に伏したとき、訪ねてくる人たちの姿に傷ついた。

 

私の敵は、私の悪口を言います。「いつ彼は死に、その名は消え去るのだろうか。」人が見舞いに来ても、その人は嘘を言い、心のうちでは悪意を蓄え、外に出てはそれを言いふらします。(5-6)

 

見舞い人は、面と向かっては「お大事に」とか「早く治りますように」などと言うが、外では「あいつも終わりだな」と毒づいた。

 

私を憎む者はみな、私についてともにささやき、私に対して悪を企みます。「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床についたからにはもう二度と起き上がれまい。」私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます。(8-9)

 

食卓をともにするほど親しい者たちまで、足蹴にするような態度を取る。

このような状況は、ほんとうにつらいに違いない。

 

さて、冒頭に戻る。

わたしは、「弱っている者に心を配る人」だろうか。

いや、むしろ、上にあるような“冷たい友”に近いのではないかと思う。

 

(まあ、自業自得だよな)

(身から出た錆だ、俺は知らないよ)

 

直接言わないまでも、心中、このような言葉を吐いているのだ。

もしかすると、その人は弱められて、悔い改める備えがあるかもしれないのに。

 

私は申し上げます。「主よ、あわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」(4)

 

祭司やレビ人は、強盗に襲われて倒れた人を見て見ぬふりをした。

しかしサマリヤ人は、その人を介抱し、宿代まで負担した。

 

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:36)

 

ダビデは、こう祈っている。

 

私の誠実さゆえに、私を強く支えてください。(12)

 

「弱っている者に心を配る」ことを疎かにしていたら、このような祈りもできない。

この詩の真意からは少しそれたかもしれないが、あらためて上記のようなことを考えさせられた。

 

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。(ヤコブ2:13)

 

 

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