みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

善を行う者はいない

主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(詩篇14:2-3)

 

14篇の冒頭は、とても印象的だ。

 

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。(1)

 

現代人、特に日本人には、「神は信じない」と言う人が多い。

または、「よくわからない」「わかりっこない」、「神がいるとしても特定の宗教に限定するのはいけない」と言う人も多い。

わたし自身、キリストを信じる以前はそんな感じだった。

 

あなたは、どうか?

 

少なくとも聖書は、「神はいない」と考える者を「愚か者」と言っている。

 

2~3節は、パウロがローマ書で引用していることからも、よく知られる聖句だ。

 

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:9-12)

 

パウロは信仰義認について論じるなかで、この詩篇を引用した。

すべての人が罪の下にある、と。

 

ただし、14篇の続きを読むと、元の文意は少し異なるように思える。

 

不法を行う者は、みな知らないのか。彼らは、わたしの民を食らいながらパンを食べ、主を呼び求めない。見よ。彼らは大いに恐れた。神は、正しい一族とともにおられるからだ。(4-5)

 

「わたしの民」、「正しい一族」といった表現が出てくる。

ダビデは、イスラエルの民のことを、あるいは主を呼び求める者たちのことを言っているのだろう。

 

ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。(7)

 

これは、まさにメシア預言とも読める。

 

パウロは、ダビデの言葉を、信仰によって義と認められる「神のイスラエル」として適用したのだろう。

そうならば、14篇全体は次のようにも読み取れる。

 

  1. すべての人は罪に定められる存在(1-3)
  2. 主は、(信仰により)主に身を避ける者とともおられ、彼らを守られる(4-6)
  3. (神の)イスラエルはまことの救いを得る(7)

 

「神はいない」と豪語し「腐って」いたわたしを、神は恵みによってご自身に身を避ける者に変えてくださった。

それまで知らなかった新しい歌を歌う者とされた。

そのことを、感謝しよう。

 

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6:16)

 

 

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