私の祈りに耳を傾けてください
神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。(詩篇61:1)
「祈り」とは何だろう。
考えてみれば、不思議な行為だ。
目に見えない存在に向かって手を合わせ、こうべを垂れ、言葉を告げる。
あらゆる宗教には「祈り」があり、日ごろ無宗教な日本人も、寺社仏閣に行けば手を合わせる。
子どもの頃、わたしの家の窓から見える山上に仏像があり、夜になるとライトアップされていた。
わたしは受験や部活の試合などのたびに、その仏像に向かって手を合わせた。
結果が良いと、「祈りが聞かれた」と思ったものだ。
二十代でキリスト信者となり、「祈り」に対する捉え方も大きく変わった。
それまでの「祈り」は言わば「祈り心」のようなものに過ぎず、祈りそのものが喜びとなり力となるようなことはなかったが、クリスチャン信仰のそれは、まさに生ける神との交わりであり、喜びであり、力であると知った。
とはいえ、不信仰な者である。
祈りをおろそかにし、生き生きとした信仰の歩みの乏しいことを認めざるを得ない。
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたを呼び求めます。どうか、及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。(2)
クリスチャン信仰の「祈り」の特長は、“主ご自身を求める”ことではないだろうか。
「あなたを呼び求めます」。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。(詩篇42:1-2)
ああなりますように、こうなりますように、ああしてください、こうしてください。
そのような“要求”ではなく、「あなた」を求めてやまない祈りに変わることが、信仰の成長なのかもしれない。
あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐら。私は、あなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避けます。(3-4)
「あなた」、すなわち神ご自身を求める祈りにならない限り、わたしたちの祈りは義務的なものに過ぎず、祈りが何にもまさる楽しみとはならないだろう。
ダビデのように、「あなた」を愛してやまない祈り人となりたい。
あのこと、このこと以上に、神ご自身を求める祈り人に。
主よ、いつもいろいろなことを祈ってはいますが、あなたご自身を求めることの乏しかったことをお許しください。
どうか、ダビデのように、心からあなたを慕い求め、愛する者にしてください。
あのこと、このことを、脇へ置きます。
あなたを愛します。アーメン。
こうして、私はあなたの御名を、とこしえまでもほめ歌い、日ごとに、私の誓いを果たします。(8)
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)