私たちを回復させてください
神よ、あなたは私たちを拒み、私たちを破られました。あなたは怒られました。どうか、私たちを回復させてください。(詩篇60:1)
ただ、表題を見ると、あれ?と思う。
ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに。(表題)
ヨアブはダビデの部下であるが、この頃のダビデは勢力を拡大し、行く先々で勝利を重ねていた。
そのときに回復を祈ったというのは、どういうことだろうか。
もしかすると、自軍の緩みを見て、自戒のために詠んだのかもしれない。
あなたは地を揺るがし、引き裂かれました。その裂け目を癒やしてください。地が揺れ動いているからです。あなたは、御民を苦しい目にあわせ、よろめかす酒を、私たちに飲ませられました。(2-3)
神が何らかの理由で怒られ、揺るがし、引き裂かれた。
それを癒やしてくださいと祈っている。
あなたは、あなたを恐れる者に旗を授けられました。弓から逃れた者をそこに集めるために。あなたの愛する者たちが助け出されるよう、あなたの右の手で救い、私に答えてください。(4-5)
「旗」とは神の臨在、神の勝利の象徴だ。
主を恐れ、愛する者たちが、主のみもとに集められ、助け出されるようにと祈る。
6~8節では、神がイスラエルを完全に所有しておられることを宣言される。
続いて、ダビデは念を押すように祈る。
神よ、あなたご自身が私たちを拒まれるのですか。神よ、あなたはもはや私たちとともに出陣なさらないのですか。(10)
そんなはずはないでしょう、という反語的な祈りだ。
どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいからです。神にあって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけてくださいます。(11-12)
人の救いはむなしい。
「神にあって」のみ、「私たちは力ある働きを」することができる。
今回この詩を読んで、ふと思った。
「回復」を祈るべき事柄は、実はたくさんあるのではないかと。
自分の信仰、祈りの生活はどうか。
主に対する愛、信頼は。
家族、友人、主にある兄弟姉妹との関係はどうか。
仕事や学業はどうか。
教会はどうか。
それらは破れてはいないだろうか。
「回復」のために祈る必要があるのではないか。
信仰による祈りは、病む人を回復させます。(ヤコブ5:15新改訳第三版)