神が私の砦
私の力よ、私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。(詩篇59:9)
これもダビデの作だが、表題にはこうある。
ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。(表題)
ここまで読んできた59の詩篇では、ダビデによるものがたくさんあった。
その多くは、敵に追い詰められた状況で詠まれたものだ。
ダビデとしてはたまったものではなかっただろうが、その苦しみがあったことで、これだけの詩篇が生まれた。
むしろ彼は、揺るがぬ地位を得たときに、大きな罪を犯した。
私の神よ、私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く、私を引き上げてください。(1)
59篇では、敵に関する赤裸々な祈りがつづられる。
あなたは万軍の神、主、イスラエルの神。どうか目を覚まし、すべての国を罰してください。邪悪な裏切り者を、だれもあわれまないでください。(5)
彼らを殺してしまわないでください。私の民が忘れることのないように。御力によって、彼らをさまよわせてください。(11)
彼らが罰せられ、民から忘れられないために殺されることなくさまよわせてくださいと、祈っている。
同時に、こうも祈る。
憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くしてください。彼らがいなくなるまで。(13)
ダビデの祈りは矛盾しているように見えるが、それは重要ではない。
ポイントは、彼は言葉を取り繕うことなく神の前に正直に祈ったということだ。
わたしたちは、ともすれば、祈りの言葉を整えてしまいがちだ。
お手本のような、祈祷書にあるような、いかにもクリスチャンらしい言葉に。
公的な場ならともかく、一人で祈るときには、そのような“枠”を取り外したほうがいい。
神は、私たちのうわべの言葉を聞きたいのではなく、ほんとうはどう思っているかを聞きたいのだ。
ダビデは敵への思いを隠そうとはしなかった。
ただ、それをあるがままに、主の前にさらけ出した。
だからこそ彼は、最終的に、偽りのない真心からの賛美をささげることができたのだ。
この態度を見習いたい。
私の力よ、私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦、私の恵みの神であるからです。(17)