みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

さばく神が地におられる

「まことに、正しい人には報いがある。まことに、さばく神が地におられる。」(詩篇58:11)

 

58篇にタイトルをつけるとすれば、「人のさばきと、神のさばき」とでもなろうか。

 

力ある者たちよ、おまえたちは本当に義を語り、人の子らを公正にさばくことができるのか。(1)

 

人をさばく立場にある者は、当然、大きな権力を持つわけだが、公正にさばけるのかと問うているのだ。

なぜか?

 

実に、おまえたちは心で不正を働き、地で手の暴虐をはびこらせている。悪しき者どもは、母の胎を出たときから踏み迷い、偽りを言う者どもは、生まれたときからさまよっている。(2-3)

 

聖書は、人はみな生まれながらにして罪人であるという。

つまり、神を見失い、神のもとからさまよい出た者ということだ。

その結果、その心は善よりも悪に傾き、完全に正しいということはあり得ない。

 

完ぺきな子育てができる人はいないように、完ぺきなさばきができる人はいない。

育てる側も育てられる側も罪人であるように、さばく側もさばかれる側も罪人であるからだ。

 

「さばき」について考えるとき、ヨハネ福音書8章は有意義な学びとなる。

その中で、キリストはこう語っておられる。

 

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。」(ヨハネ8:44)

 

このような者が、さばく座に着いているのが現実だ。

 

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。」(同15-17)

 

世には“聖職”と呼ばれる職があるが、裁判官はその最たるものかもしれない。

 

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(同7) 

 

58篇に戻ろう。

 

正しい人は、復讐を見て喜び、その足を、悪しき者の血で洗う。こうして人は言う。「まことに、正しい人には報いがある。まことに、さばく神が地におられる。」(10-11)

 

最終的に人をさばくのは、神のみだ。

復讐をなさるのも、神のみだ。

この点において神は完ぺきに公正であると、ダビデは伝えている。

 

最後に、唯一さばく権利をお持ちの神の子キリストのことばを聞こう。

 

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)

 

 

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