神は聞いてくださる
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。(1ヨハネ5:14-15)
このみことばは、祈りへの大いなる励ましだ。
ここで「神は聞いてくださる」「神が聞いてくださる」とくり返されている。
ヨハネは3章でも、次のように書いていた。
愛する者たち。もし自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。(1ヨハネ3:21-22)
わたしたちは、「神は聞いてくださる」「何でも神からいただくことができる」という確信を持っているだろうか。
もし、そのような確信を持つことができれば、これほど心強く、嬉しいことはない。
しかし実際のところわたしなどは、なかなか聞かれないなあ、みこころではないのかなあ、自分の罪が妨げになっているのだろうなあと、なんとも心もとないのが現状だ。
神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。
新改訳第三版では、この箇所は「すでにかなえられたと知るのです」となっていたが、新たな訳のほうがより力強く感じる。
ちなみに英語の聖書では、こうある。
we have what we asked of him.(NIV)
「have」だから、やはり「手にする」のほうが近いのだろう。
「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:23-24)
イエスさまは、くり返し、「信じよ」「求めよ」「祈れ」と説かれた。
問題は、わたしたちがそれを本気で信じるかどうかだ。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ14:13-14)
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ16:23-24)
わが子が親に遠慮するなら、それは親にとって悲しみだ。
親への愛と信頼のあらわれとして求めてくるなら、それは喜びとなる。
遠慮なく、大胆に信じて、祈り求めよう。
「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(2歴代誌16:9)