教えにとどまる
だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(2ヨハネ9)
『ヨハネの手紙第二』は、わずか13節の短い手紙だ。
ここでヨハネは、「私たちが初めから持っていた命令」を思い起こすよう強調している。
そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。(5-6)
なぜこのことを確認する必要があったのか?
こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(8)
「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない」とは、イエス・キリストを神の御子と認めないことだ。
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(1ヨハネ4:15)
イエスについて語りながらも、「神の御子」であることを否定する者たちがいた。
それが「反キリスト」だと、ヨハネは言う。
彼らは、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者たちだ。
この「先を行って」は、新改訳第三版では「行き過ぎをして」となっていた。
要するに、分をわきまえず、度を超しているということだ。
「先を行く」の反対は、「とどまる」だ。
ヨハネは手紙でも福音書でも、好んで「とどまる」という言葉を使っている。
有名な『ぶどうの木のたとえ』を見てみよう。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4-5)
「とどまる」とは、分をわきまえており、慎み深く謙遜であることだ。
これに対し、「先を行き」「行き過ぎる」のは悪魔の特徴だ。
キリストの教えにとどまって互いに愛し合うことが、そこから守られる道といえる。
さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。(1ヨハネ2:28)