休ませてあげます
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)
イエスさまは一点のけがれもなく、きよさそのもののお方だ。
それでありながら、言葉では表せないほど、ふところの深いお方だ。
これは、考えてみれば、不思議なことだと思う。
ふつうは、きよくあればあるほど、近寄りがたいものだ。
ところがイエスさまは「取税人や罪人の仲間」(19)と揶揄されるほど、世間でさげすまれていた者たちから慕われた。
そのあり方に、バプテスマのヨハネですら、確認したくなったようだ。
「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(3)
ヨハネはいなごと野蜜を食べて暮らすほど自らを厳しく律し、人々にも罪の悔い改めを強く求めた。
そこには義を追い求める真剣さこそあれ、「あなたがたを休ませてあげます」というような安らぎは見られない。
疲れている自分を鍛えて疲れにくくすること、重荷に十分耐えられるよう強くなろうとすること、これが人間の義であり、宗教の世界だ。
イエスさまが示された福音の世界は、まったく異なる。
疲れた者として、重荷に苦しむ者として、そのままでいいから、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28)と招いてくださるのだ。
自分を偽らずに、正直に主のみもとに来る者、それが「幼子(おさなご)」だ。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(25-26)
主は取税人や罪人を招き、受け入れてくださる。
わたしもまた、その一人。
ハレルヤ。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9)