剣をもたらすために来た
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)
このみことばは、イエスさまのお言葉のなかでも特に激しく、印象的だ。
さらに、こう続く。
「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(35)
どうだろう。
多くの人がつまずきそうなみことばではないか。
キリストの教えは家族と敵対することを推奨するものなのか、と。
これが、聖書を読む難しさだ。
というのは、聖書はつねに聖書全体から読み取ることが肝要だからだ。
たとえば、このマタイ10章の全体を見てみる。
ここでイエスさまは、弟子たちを世に遣わすべく、その心構えを説いておられる。
注意深く読むと、そのお言葉の根底には、ひとつのメッセージが流れていることに気づく。
それは、「人を恐れるな」というものだ。
「だから、彼らを恐れてはいけません。」(26)
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」(28)
「だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(31)
「人を恐れる」とき、わたしたちの持つ信仰の光は薄暗くなり、ときには消えてしまったりする。
「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(33)
ペテロはなぜ、三度も主を「知らない」と言ったか?
人を恐れたからだ。
その彼も、のちに初代教会のリーダーとなり、「人に従うより、神に従うべきです。」(使途5:29)と言うまでに変えられた。
ところがそのあとも、彼はやっぱり人を恐れることがあったと、パウロは書いている。
ところが、ケパ(ペテロ)がアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。(ガラテヤ2:11-12)
ペテロの姿からわかるのは、「人を恐れる」習性がいかに根深いかということだ。
マタイ10章の後半で、イエスさまはこう言われた。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(38-39)
自分の十字架を負わないとは、人を恐れて自分の身を守ることだ。
自分のいのちを自分のものとするとは、人を恐れて自分の身を守ることだ。
イエスさまよりも父や母を愛する、または息子や娘を愛する(37)とは、うわべの平和が破れることを恐れて、それを守ろうとすることであり、自分の身を守ることだ。
「剣をもたらすために来た」「家族の者が敵となる」というみことばは、わたしたちが周囲に向かって突きつけるためのものではない。
そうであれば、怪しげな新興宗教となんら変わらない。
そうではなく、これらのみことばは、わたしたちが自分の内側を深く探られるためのものだ。
うわべの平和を守ろうとしてはいないか、自己保身が潜んではいないか、人を恐れてはいないか。
わたしは、自分のなかに「人を恐れる」心が頑として存在することを認めざるをえない。
キリスト者として旗幟鮮明(きしせんめい)な歩みができるよう、主に祈り求めたい。
「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」(使途4:29)
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)