賢い人
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24)
主は、口先だけの信仰者ではなく、その信仰が「行ない」に表れる本物の信仰者が御国にはいるのだと、語られた。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(21)
口先だけで『主よ、主よ。』と言う者も、主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行なった。(22)
ひとことで言えば、“派手な”あり方だ。
これは、その直前に語られた「滅びに至る門」ではなかろうか。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。・・・」(13-15)
本物の道は、小さな門からはいる“地味な”道ということだ。
そしてイエスさまは、みことばを行なう者を岩の上に家を建てた「賢い人」に、みことばを行なわない者を砂の上に家を建てた「愚かな人」に、たとえられた。
わたしは、自らの信仰が「愚かな人」になってはいないかと、恐れる。
このマタイ7章の最良の注解書は、ヤコブの手紙だろう。
祈り求めること、人をさばくこと、行ないのない信仰、木の実のたとえ、賢い人の生き方など、驚くほど共通点が多い。
著者(主の兄弟ヤコブ)は、イエスさまのみことばを思い出しながら、この手紙を書いたにちがいない。
彼は言う。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(同2:14)
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。(同2:26)
「愚かな人」ではなく「賢い人」の道を、「広い道」ではなく「狭い道」を歩みたい。
そして、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(23)ではなく、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25:21)、とのみことばを賜りたい。
どうか、行ないの伴う本物の信仰者として、歩めますように。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」(12)