みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あすのための心配は無用です。

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)

 

マタイ6章でイエスさまは、徹底して、人々の目を天の御国に向けさせようとしておられる。

 

人からの称賛や尊敬を得ようとすることは、「すでに自分の報いを受け取っている」(2・5・16)ことであり、「自分の宝を地上にたくわえる」(19)ことだ。

 

そうではなく、「隠れた所で見ておられるあなたの父」(4・6・18)からの報いこそ求めるべきであり、それは自分の宝を「天にたくわえ」(20)ることになる、と。

 

そして、食べ物や、からだや、着物や、いのちのことで心配してはいけない、と断言された。

理由は、

 

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(8)

 

御父は、ちゃんと知っておられる。

だから心配することをやめて、天の御国を第一に考えなさい、と教えられた。

 

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33)

 

きょう、わたしの最大関心事は何だろう?

天の御国か、自分の信仰か、食べ物や健康か、あの人この人か。

 

わたしの重心は、どこにあるか?

天の御国か、この地上か。

 

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24)

 

悪魔はなんとかして、わたしたちの目を地上だけに向けさせようとしている。

目に見えるこの世界がすべてだと、信じさせようと躍起になっている。

ここに宝を積め、ここで報いを受けるべきだ、と。

 

信仰の戦いは、御国を仰ぐか、地上だけを見るか、の戦いともいえる。

エスさまのお言葉を、信じよう。

天の父からの報いこそが、たしかで、すばらしい、本物の宝なのだ。

 

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』」(9-10)

 

 

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