みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

成就するために来たのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

 

このあとイエスさまは、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「妻に離婚状を与えよ」「偽りの誓いを立ててはならない」など、具体的な律法をあげながら、その真意を述べられた。

 

そこではイエスさまは、律法を廃棄するどころか、より強調しておられることがわかる。

 

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(28)

 

例えてみれば、わたしたちは十個の器を与えられ、常に水で満たすよう命令されたようなものだ。

懸命に水を注ぐけれども、わたしたちの「罪」が器に穴を空けてしまったので、どれ一つ満たされることはない。 

そして、ここが足りない、あそこがダメだ、とあくせくしている。 

 

さらにタチが悪いことに、自分の器は棚に上げ、他人のそれを気にする。
「あれよりはマシだな」とか「どうだ、私のはずいぶん水が溜まったぞ」と得意になっているのが、律法学者やパリサイ人だ。

 

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(20)

  

パウロは、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」(ガラテヤ3:24)としたが、ここでのイエスさまによる律法の強調が、まさにそうだ。

 

「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」(ローマ3:20)のであれば、イエスさまの一連の強調は、わたしたちにますます「罪の意識」を生じさせる。

 

「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(48)

 

このみことばに、だれが「はい、がんばります」と言えようか。

「天の父が完全なように」なのだ。

神以外に、満たせるお方はいない。

 

わたしたちは、壊した器を抱えたままで、恵みの大海に浸かることがゆるされている。

もう、一つ一つの器を見張る必要はない。

ダメな者として、恵みの主を見上げよう。

 

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16-17)

 

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10:4)

 

 

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