安息日にしてよいのは
それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。(マルコ3:4)
「彼ら」とあるのは、イエスを訴える口実を狙っていた律法学者やパリサイ人たちだ。
2章には、イエスさまとは対照的なパリサイ人の言葉が出てくる。
「なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」(マルコ2:24)
律法主義者たちの意識は、「してはならない」ことに集中していた。
これに対し、イエスさまの意識は、「してよい」ことに向けられていた。
イエスさまは、けっして禁欲主義者ではなかった。
イエスさまの原則は、つねに“愛する”ことにあったのだ。
よく言われるように、イエスさまの言葉は、あの孔子の言葉とも対照的だ。
孔子が「己の欲せざるところ人に施すなかれ」と言ったのに対し、イエスさまはこう言われた。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)
イエスさまの生き方は、能動的で前向きだ。
そもそも天の御位を離れて、神に逆らい続ける人間たちをひとりでも救おうと、地上に人となってくださったことじたいが、超能動的といえる。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6)
わたしたち人間は、悲しいかな、禁止事項に目を向ければ向けるほど、そこに近づいていく。
甘い物を食べないようにしようとすればするほど、頭の中は甘い物でいっぱいになる。
そうなれば、シュークリームに手を伸ばすのは時間の問題だ。
「あれだめ、これだめ」の世界ではなく、「あれよし、これよし」の世界をイエスさまは示された。
ここに勝利の秘訣があるのではなかろうか。
主の御霊をいただいている者として、勇気をもって人を愛し、積極的に“愛する”生き方をしたいものだと思う。
他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:8-10)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)