信じる者はみな義と認められる
「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(使徒13:38-39)
13章からいよいよ、パウロの異邦人伝道がメインテーマになってくる。
聖霊によって示され、パウロとバルナバが第一回目の伝道旅行に遣わされた。
二人はペルゲから進んで、ピシディアのアンティオキアにやって来た。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者たちの書の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話しください。」そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。(14-16)
この新改訳2017版では、16節が「手振りで静かにさせてから」となっている。
場がちょとした騒ぎになったのだろう。
新参者に発言を促すのは、異例のことだったのか。
それともすでに「キリスト者」たちの噂が届いていて、彼らに話をさせることについて賛否がわき起こったのだろうか。
パウロが、おごそかに語り始める。
彼の弁明は、ステパノやペテロのそれと同じように、聖書(旧約聖書)におけるイスラエルの歴史から始まった。
そして、イエスが神から遣わされた救い主であること、この方をイスラエルの人々は十字架で殺したこと、しかし神はこの方をよみがえらせたこと、これにより罪の赦しが成し遂げられたこと、を主張している。
ただ、ここで「信仰による義」についてふれているところが、パウロならではだ。
「モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(38-39)
リビングバイブルでは、つぎのように訳していてわかりやすい。
「イエスを信じる人はみな、すべての罪から解放され、正しい者と宣言されるのです。これは、モーセの律法ではどうしてもできないことでした。」
「モーセの律法ではどうしてもできない」とは、人間の「行ない」によってはできない、という意味だ。
イエスを信じる者はみな、義と認められる。
極みまで聖いお方から、「正しい者」と宣言される。
嘘のような本当の話だ。
わたしが聖くなったからではない。
聖いお方であるイエス・キリストが、わたしの代わりに血を流されたからだ。
義と認められるために、たくさんのことを励み行っている人ほど、受け入れがたいことだろう。
しかし、神の前に受け入れられるために必要なことは、イエスを信じる、ただそれだけなのだ。
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10:4)