みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神に生きるために

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。(ガラテヤ2:19)

 

1章に続いてパウロは、自分が「使徒」として召された者であることを強調する。

エルサレムに上った際、教会の「おもだった人たち」(6)「柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネ」(9)からも認められたのだ、と。

 

そして、おもだった人たちからは――彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません――そのおもだった人たちは、私に対して何もつけ加えはしませんでした。(6)

 

このあたりの言い回しは、いかにもパウロらしい。

「神は人を分け隔てなさらない」という言葉が出まかせでないことが、その直後にわかる。

ペテロ(ケファ)の間違った態度が明るみになり、新約聖書に記されることになったのだ。

 

ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。(11-12)

 

ペテロは人を恐れた結果、主を三度も「知らない」と言ったのではなかったか。

だからこそ、復活の主に出合い、回心し、人を恐れずに主を証ししてきたのではなかったか。

にもかかわらず、またも人を恐れて「偽りの行動」(13)に陥ってしまった。

どんなに主の器として用いられている人でも、落とし穴にはまる危険がある。

 

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:12)

 

そこから、パウロは「信仰による義」について語る。

 

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(16)

 

そして冒頭の言葉だ。

 

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。(19)

 

「神に生きる」ためには「律法に死ぬ」必要がある。 

「神に生きる」ことと、「律法に生きる」ことが、対立する関係であることに注意したい。

反対に、「律法に生きる」ならば「神に死ぬ」ということだ。

 

ユダヤ主義者たちは、「律法に生きる」ことが「神に生きる」ことだと、信じて疑わなかった。

かつてのパウロ自身が、そうだった。

だれよりも律法に熱心であったパウロだからこそ、この恐るべき“倒錯”に気づいた。

 

私はキリストとともに十字架につけられました。(19)

 

ここに解放がある。

キリスト者の成長とは、この真理を体験的に知っていくことと言えるのではないだろうか。

 

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(20)

 

 

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