みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

ほかの福音

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(ガラテヤ1:6-7)

 

今回から、『ガラテヤ人への手紙』に入る。

新約聖書にはパウロの書簡が全部で13通おさめられているが、『ガラテヤ人への手紙』はその中で最も早い段階で書かれたそうだ。

 

パウロは、何度か大きな伝道旅行をした。

そして各地に、キリストのからだなる教会を起こしていった。

各教会は、いわば出来立てほやほやで、信者たちもよちよち歩きの手探り状態だった。

 

当然そこには、反対者も多かった。

暴力で潰そうとする動きもあれば、異なる教えで惑わす動きもあった。

 

私は、思う。

現代のように電話もネットも無く、毎月のように巡回伝道することもできなかったパウロの時代には、各地の教会のために祈ることが、いまとは比べものにならないほどの熱心さをもってなされたのではないか、と。

動向がわからないだけに、主にゆだねて、祈るしかなかったのではないだろうか。

 

パウロは、テサロニケの教会に向けてこう書いている。

 

あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。・・・私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(1テサロニケ3:8・10)

 

そんな中でパウロは、ガラテヤ地方の諸教会に向けて手紙を書いた。

「ほかの福音」によって惑わそうとする者たちが入り込んでいると聞いたのだ。

 

「ほかの福音」とは、割礼をはじめとして、律法をきちんと守り行わなければ、神の前に義と認められることはない、すなわち救われない、とする教えだった。

これに対しパウロが、それが「キリストの福音」にいかに相反する教えであるかを説いたのが、この『ガラテヤ人への手紙』だ。

 

パウロは、こう言っている。

 

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(4:19)

 

パウロの手紙は、「産みの苦しみ」の産物ともいえる。

 

1章では、パウロは、自分が主から直接受けた啓示によって「使徒とされた」ことを強調している。

 

人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、(1)

 

兄弟たち、私はあなたがたにあきらかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(11-12)

 

パウロは主から直接啓示を受けたわけだが、これはわたしたちにも当てはまるべきことではないだろうか。

わたしたちもまた、主からの啓示、つまり「上からの光」によって真理を知り、救われ、成長させていただく。

 

もちろん、聖書を自分勝手に解釈する危険はつねに警戒すべきだし、軽々しく「主から示された」などと言うようなことは厳に慎まなければならない。

しかし同時に、つねに主を新しく見上げ、みことばを新しくいただくこともまた、たいせつなことだろう。

 

主よ、きょうもみことばの戸を開き、深い真理へと導いてください。

御霊によって、わたしの霊の目を開き、あなたのすばらしさを教えてください。

御名によって祈ります。アーメン。

 

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。(8)

 

 

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