みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

信仰に生きているかどうか

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。(2コリント13:5)

 

手紙の終わりに、パウロはこれまでにも増して厳しい口調で、次のように言った。

 

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

 

前にパウロは、コリントの教会に宛てて厳しい手紙を書いた。

教会はそれによって悔い改めたが、一部に「パウロは何様のつもりだ」といった批判があった。

それに対しパウロは、「容赦しません」という強い言葉をもって、神を侮ってはいけないことを伝えようとしている。

 

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。(3)

 

そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。(10)

 

「キリストが私によって語っておられる」、「主が私に授けてくださった権威」、いずれも大変重い言葉だ。

これまで何度もふれてきたように、神のしもべとしていかに真実に仕えているかを、パウロは手紙全編を通して訴えている。

しかし、けっして強弁するのではなく、真心からの愛をもって語っている。

 

私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。(9)

 

そしてパウロは、念を押すようにこう書いた。

 

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。(5)

 

信仰に生きているかどうか、静かに考えよと。

特にここでは、次のことだ。

 

自分のうちにイエス・キリストがおられることを・・・(5)

 

パウロが生きた頃から二千年が経ったいまも、聖書のみことばによって救われる者たちが起こされ、主を愛する兄弟姉妹たち、すなわちキリストのからだなる教会が続いている。

これこそ、わたしたち一人ひとりの内に、御霊を通して、イエス・キリストが生きておられる証拠ではないか。

みことばを喜び、主を愛する者ならば、「自分のうちにイエス・キリストがおられる」と確信してよい。

そのことを覚えて、主を賛美しよう。

 

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(13)

 

 

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