主にあって堅く立っているなら
あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。(1テサロニケ3:8)
「お正月は3人の息子の家族たちと、みんなでテレビ電話したんですよ」
先日、あるご婦人からそんな話を伺った。
いわゆる“オンライン帰省”だ。
今年はきっと日本中の至るところで、同じような光景が見られたことだろう。
いまはこのように会いたいと思えばすぐにつながり、顔を見たり、声を聞いたりして、元気に過ごしていることを確認できる。
しかしパウロの時代は、パソコンも無ければ電話も無い。
したがってパウロは、親が子の安否を心配するように、生まれたての教会を案じた。
私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(10)
イエスさまは弟子たちを遣わすときに、「狼の中に羊を送り出すようなものだ」と言われたが、まさにパウロは、教会が狼の襲来から守られるようにと「熱心に祈って」いたのだ。
そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。(5)
パウロは3章の終わりに、教会のための祈りを二つ記している。
ひとつは、彼らの互いの愛がますます豊かになることだ。
私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。(12)
もうひとつは、教会が主の再臨のときに御前に聖く立てることだ。
そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)
主の再臨のときは、日に日に近くなっている。
これら二つの祈りを、キリストのからだなる教会を思いつつ、熱心にささげようではないか。
ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。(2コリント11:28-29)