眠っている人たちについて
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。(1テサロニケ4:13)
イエスさまは、弟ラザロを亡くしたマルタに、次のように言われた。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-16)
主イエスを信じる者は、死んでも死なない。
死ぬのではなく、眠るにすぎない。
「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(ヨハネ11:11)
殉教したステパノの最期についても、聖書はこう告げている。
こう言って、彼は眠りについた。(使徒7:60)
先に眠った人たちについて、パウロは言う。
イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。(14)
彼らは、イエスさまとともにやって来る。
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(16-17)
ここに記されていることは、多くの人にとっては荒唐無稽なたわ言と思えるだろうが、主を信じる者たちにとっては大きな希望だ。
わたしたちは主と会うだけてなく、先に眠った人たちとも再会する。
懐かしいあの人も、またあの人も、そこにいる。
パウロはこの4章の前半で、聖くあることや愛し合うこと、さらにはきちんと働くことの大切さを説いている。
そのように歩んでこそ、安心して眠りにつくことができるというものだろう。
良き眠りに入るためにも、地上の日々をしっかり歩みたいものである。
わが子よ、見失ってはならない。
知性と思慮をよく見守れ。
それらは、たましいのいのちとなり、
あなたの首に麗しさを添える。
こうして、安心して自分の道を歩み、
あなたの足はつまずかない。
横たわるとき、あなたに恐れはない。
休むとき、眠りは心地よい。
にわかに起こる恐怖に、
悪しき者たちの来襲に、おびえるな。
主があなたの頼みであり、
足が罠にかからないように、
守ってくださるから。(箴言3:21-26)