みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

自分の弱さを誇りましょう

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9)

 

『コリント人への第二の手紙』を読むと、パウロがさまざまな批判を受けていたことがわかる。

それに対しパウロは、自分がキリストのしもべとしていかに真実に歩んでいるか、いかに多くの苦難に耐えてきたか、いかに偽りのない愛で教会を愛しているかを、言葉を尽くして述べている。

 

特に、「神の御前で」という表現がくり返し出てくる。

 

あなたがたは、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと、前からずっと思っていましたか。私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する者たち、すべてはあなたがたが成長するためなのです。(2コリント12:19)

 

 

「神の御前で、キリストにあって語っている」とある。

生半可な思いで、言える言葉ではない。

 

11章では、彼が経験した“苦難のリスト”が挙げられた。

12章では、「キリストにある一人の人」のこととして、「第三の天」「パラダイス」に引き上げられた体験を明らかにしている。

そのような特殊な体験をしながらも、彼自らは、「弱さ」だけを誇ると言った。

 

このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。(5)

 

弱さ以外は誇らない・・・。

凄い言葉ではないだろうか。

 

わたしは、自分を省みて恥ずかしくなる。

事あるごとに自分を誇ろうとし、強く見せようとする性質がこびりついているからだ。

 

弱さ以外は誇らない・・・。

ほんとうに、この一つだけでも徹底したら、わたしの信仰はどう変わるだろうか。

主との関係は、人との関係は、どう変わるだろうか。

 

このあと冒頭の言葉を語り、こう続けた。

 

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(10)

 

パウロは、自分を弱くする事柄を「喜んで」いた。

弱くなるほど、「キリストの力が私をおおう」からだ。

 

自信を失い、落胆し、へたり込んでしまうようなとき、キリストの力におおわれる。

「私が弱いときにこそ、私は強い」という真理は、キリスト者だけが体験し得る、もっとも素晴らしいパラドックスだ。

 

弱くなろう。

弱くていい。

キリストの力に、おおわれよう。

 

 「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ、新しく力を得よ。」(イザヤ41:1)

 

 

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