みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

新しい契約に仕える

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(2コリント3:6)

 

3章のはじめで、パウロはこう言った。

 

私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。(1)

 

パウロ使徒としての働きについて、「自薦しているだけだ」という批判があったことが伺える。

この『コリント人への第二の手紙』には、「推薦」とか「神の御前で」という言葉が何度も出てくる。

それほどにパウロは、自らが神によって立てられたことを伝えようとしているのだ。

 

そこからパウロは、神からの「資格」に話を展開する。

 

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。(4-5)

 

その与えられた資格が、「新しい契約に仕える者となる資格」「御霊に仕える者となる資格」(6)だという。

 

以後に続く言葉は、難解ではあるが壮大な内容だ。

「新しい契約」(6)と「古い契約」(14)という、まさに新約と旧約について述べているのがこの箇所だ。

 

パウロの言葉を、整理してみよう。

 

古い契約/文字、モーセ、死に仕える務め、消え去る栄光、罪に定める務め、覆いを掛ける

新しい契約/御霊、キリスト、御霊に仕える務め、さらにすぐれた栄光、義とする務め、覆いが除かれる

 

モーセは、紀元前1300年頃の人だ。

つまりイスラエル人は、モーセ以来1300年に渡って厳格に文字(律法)を守ってきた。

それをパウロは、真っ向から「古い」ものとし、いまは「新しい」時代に入ったとした。

かつてだれよりも律法に熱心だった男が、だ。

生半可な覚悟で、語れる内容ではない。

 

パウロは、モーセが顔に掛けた覆いを「霊的盲目性」にたとえた。

 

しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。(14-15)

 

パウロが言った「今日に至るまで」という言葉は、残念ながら、二千年後のいまもユダヤ人のなかで続いていることを、わたしたちは知っている。

イエス・キリストを拒めば、当然そうなる。

 

しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。(16-17)

 

ここに福音がある。

キリストは、わたしたちを罪に定める世界から解き放ち、主の栄光の中に新しく生きる者としてくださった。

御名をほめたたえよう。

 

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じ形に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18)

 

 

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