みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

負いきれなかったくびき

「そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」(使徒15:10-11)

 

祝福された初代教会にも、大きな問題が生じた。

「救われるためには割礼を受ける必要がある」と主張する人々が起こり、激しい論争となったのだ。(1-2)

 

そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。(6)

 

これが、いわゆる「エルサレム会議」だ。

このときペテロが冒頭のように語り、ようやく議論が落ち着いた。

「私たちも負いきれなかったくびき」をなぜ要求するのかというペテロの言葉は、人々の心に刺さったろう。

 

結論として、主の兄弟ヤコブがこう締めた。

 

「ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(19-21)

 

このいきさつを見ると、興味深い。

 

議論のはじめは、「割礼」や「モーセの律法」が救いの条件であるか否かが論点だった。

それについては、ペテロが救いの条件ではないことを証言した。(8-9)

 

そして最終的な結論の部分では、異邦人信者にも最低限守ってもらうべき点を示したわけだが、これは救いの条件としてではなく、周囲のユダヤ人への配慮としての提案なのだ。

昔からモーセの律法を聞いているユダヤ人たちが嫌な思いをしたり、つまずいたりしないようにという配慮だ。

 

パウロは、コリントの教会につぎのように書き送った。

 

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。(1コリント10:23-24)

 

救いの条件とは、イエス・キリストを信じる、それだけだ。

それ以外に、これをしなければならないとか、こうならなければならない、と付け加え始めたら、それは「信仰による義」ではなくなる。

 

ただし、救われたのだから行ないなどどうでもいい、と考えるのは早計だ。

「自分の利益」ではなく「他人の利益」を基準にするよう、パウロは説いた。

 

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。
・・・こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。(1コリント10:28-29・31-32)

 

わたしたちは、いっさいの「くびき」から解放されている。

だからこそ、他者に配慮し、世の光として歩みたいものである。

 

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。(ガラテヤ5:13-14)

 

 

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