責められることのない良心
「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」(使徒24:16)
法廷で、パウロは上のように述べた。
「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ」とはさすがパウロと感心するが、よく読むと彼は「保っている」ではなく、「保つよう最善を尽くしている」と言っている。
完璧にできているのではないが、そうあるよう努めているということだ。
このときパウロはまさに「さばき」の座にあったわけだが、聖書においても「良心」という言葉はしばしば「さばき」と関連して使われる。
たとえばパウロはローマ人への手紙の中で、律法を持つユダヤ人も律法を持たない異邦人も同じようにさばかれるとして、こう書いた。
彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。(ローマ2:15-16)
「神のさばき」はすべての人に分け隔てなく行われ、絶対的に正しい。
神の前に「罪なき者」とされるために必要なのは、善行を積み上げることではなく、自分の身代わりとして十字架上で処刑され三日後によみがえったイエス・キリストを信じること、それだけだ。
ヘブル人への手紙9~10章の主題は、キリストの贖罪による「良心のきよめ」だ。
そこでは、キリストの贖罪によってはじめて良心が完全にきよめられると強調されている。
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:14)
また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:21-22)
イエス・キリストを信じる者は、永遠のさばきにあうことはない。
その点において、罪の赦しは完結している。
しかし、だからといって罪に対していい加減に歩んでかまわないということではもちろんない。
パウロが「最善を尽くしている」といったのは、罪の赦しにあずかった者としての歩みの話だ。
キリストを信じる者は、完全なる「良心のきよめ」を得た。
と同時に、神との交わりが深まることで、「良心」がますます鋭くなってくることも事実だ。
あのとき、愛のない態度をとってしまった。
あの言葉は、高慢の種を宿していた。
あそこで人からの称賛を得ようとした・・・
「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ」には、日々の悔い改めが不可欠だ。
少しでも主の似姿に変えていただけるよう、祈ろう。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。
わが岩、わが贖い主、主よ。
(詩篇19:13-14)