昼らしい、品位のある生き方を
夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(ローマ13:12-13)
ゴルフ場の宣伝に、こんなコピーがあるとしよう。
「当ゴルフ場のコースは、美しい芝が印象的で、終始最高の気分でまわっていただくことができます」
ところが行ってみると、穴ぼこだらけだったしたら・・・。
客はがっかりして、だまされたと思うだろう。
この場合、管理者は宣伝の前にすべきことがある。
穴ぼこをきれいに埋めることだ。
パウロは、キリスト者たちに向かって、世の中で果たすべき義務を果たすようにと書き送った。
すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。(7)
いくらイエスさまはすばらしいと語ったところで、その人間が世の中のルールを守らなかったり、権威者に逆らってばかりいたら、つまずきにこそなれ証しにはならない。
イエスさまは、宮の納入金を納める際、本来的に義務はないが「あの人たちをつまずかせないために」(マタイ17:27)と言って納められた。
また、パウロは「良心のためにも」と言っている。
ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。(5)
パウロはかつて、つぎのように証言したことがある。
「・・・私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」(使徒24:16)
新約聖書を読んでいて思わされるのは、つぎのことだ。
救われるために、正しい生き方をする必要はない。
どうしようもない罪人として、主を仰ぎ見ればよい。
しかし、救われた者として歩むうえでは、正しい生き方をする必要がある。
自分の良心のためにも、また人々につまずきを与えないためにも。
重荷に感じるだろうか?
わたし自身、それができているとは言えない。
しかし、いざ覚悟を決めて、主の御力に信頼して立ち上がることが、たいせつであるように思う。
そうすれば、エリコの城壁が崩れ落ちたように、大きな壁と思っていたものも崩れるのではないだろうか。
まず、生活の穴ぼこを埋めていこう。
きっと、主は祝福してくださる。
最後にパウロは、正しく歩むためのカギとなる言葉を残してくれている。
主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。(14)