みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

まさに必要な方

このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(ヘブル7:26)

 

ヘブル書の著者は、5章で次にように書いていた。

 

このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。(ヘブル5:11)

 

5章ですでに、キリストの大祭司職が、メルキゼデクに比することができるくらい特別なものであることが示されていた。

7章で、再度そのテーマに踏み込んでいく。

 

メルキゼデクについて、著者は次のことを列挙している。

 

  1. アブラハムを出迎えて祝福した。(1・6)
  2. アブラハムから戦利品の十分の一を受け取った。(2・4・6)
  3. 名前の意味は「義の王」「平和の王」である。(2)
  4. 父母も系図もなく、生涯の初めも終わりもない、神の子に似た者である。(3)
  5. レビも父アブラハムを通して十分の一を納めた。(9・10)

 

特に重要なのは、4.だろう。

このことが、モーセの律法によるのとは根本的に異なる「キリストの大祭司職の特異性」につながるからだ。

 

私たちの主がユダ族から出られたことは明らかですが、この部族について、モーセは祭司に関することを何も述べていないのです。・・・その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらず、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。(14・16)

 

祭司職は律法によればレビ族が担うが、キリストはユダ族から出られた方であり、その意味で、モーセの律法によらずに立てられた特別な祭司である。

したがって、昔のメルキゼデクのような存在だ、というわけだ。

 

さらに、キリストの大祭司としての特異性を語る。

 

また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、努めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(23-25)

 

なぜ「完全に救う」ことができるのか?

 

エスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。(27)

 

キリストは、民の罪のために「自分自身を献げ」られた。

だからこそ、キリストの「とりなし」は完全なのだ。

 

わたしたちがどんなにつまずき、失敗しようとも、キリストは御父の御前にご自身の手の釘跡を見せられる。

「わたしは彼(彼女)のためにも、死にました。彼(彼女)への処罰は、完了しています」と。

御名をたたえ、キリストの贖いに信頼し、大胆に恵みの御座に近づこうではないか。

 

エスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(ヘブル2:9)

 

 

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