みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

大胆に恵みの御座に近づこう

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)

 

4章の冒頭で著者は、次のように書いた。

 

こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(1)

 

ここでいう「恐れる心」とは、不信仰のゆえに神の安息に入れないことを恐れるという意味と、かつて不信仰な民を安息に入らせなかった神を恐れるという、両面があるように思う。

13節では神を恐れることが、さらに強調される。

 

神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(13)

 

こう見ると、14章は、「恐れる心を持とう→この神に対して申し開きをするのです→恵みの御座に近づこう」という流れになっている。

 

ふつうに考えれば、「恐れる」ことと、「近づく」ことは、矛盾する。

しかし、この両者が成り立つのが福音の素晴らしさであり、不思議さだ。

 

その真ん中には、大祭司イエス・キリストがおられる。

 

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。(14)

 

大祭司なるイエスさまがおられなければ、わたしたちは恐れ、逃げ惑うばかりだ。

しかし、このお方がわたしたちのすべての罪をきよめてくださったがゆえに、わたしたちは神を「アバ、父」と呼んで近づくことができる。 

わたしたちが主の血潮の力に信頼し、信仰の告白を堅く保って、大胆に恵みの御座に近づかなければ、主が十字架上で苦しみを受けられた意味がなくなる。

 

ところで、ここまで何度も引用されている旧約聖書の言葉がある。

 

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(7)

 

これは、詩篇95篇からの引用だ。

よく読むと、この詩篇では、「恐れる」ことと「近づく」ことが表現されている。

95篇全体を、ヘブル書4章と合わせて読むと良いように思う。

 

来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。まことに、主は私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊。今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように、荒野のマサでの日のように。(詩篇95:6-8)

 

 

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