みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

信仰によって生きる人々

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(9)

 

3章でもパウロは、「信仰による義」について論を進めていく。

 

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

 

律法の中心は「行い」であり、信仰の中心は「聞く」ことだ。

 

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)

 

信仰生活で喜びを失い、疲れをおぼえる、そんなときはたいてい「行い」中心になっている。

幼子のように小さくなって、「聞く」ことに徹しよう。

 

パウロは、アブラハムを例に挙げて、「信仰による義」を立証しようとする。

 

アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。(6-7)

 

われわれの先祖アブラハムも、神を信じたときに義と認められたでしょう。

神に「よし」と受け入れられるのは、すなおにみことばを信じるときであって、あれやこれやを行った結果ではないんですよ、というわけだ。

 

それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。(19-20)

 

人間の世でも一度契約を交わしたら、あとから「つけ加えたり」しないでしょうと言ったあとで(15)、律法は「つけ加えられたもの」だとパウロは語った。

しかも、約束と違って仲介者を介して与えられたのだ、と。

 

要するに、律法は約束よりもあとから来ており、仲介者を介して与えられたものにすぎないので、約束のほうが律法より優位にあると言っているのだ。

これは律法を重んじるユダヤ主義者たちからみれば、許されざる発言だ。

 

さらにパウロの爆弾発言は続く。

 

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。(24)

 

律法は「違反を示すため」のものであり、「キリストに導く養育係」である。

このことを端的に表したパウロの言葉が、ローマ書7章にある。

 

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ7:24-25)

 

自分でなんとかしよう、何者かになろう、この壁をよじ登り、高みに達してやろう。

どんなに真面目で熱心であろうと、このあり方が死への道であることを、聖書全体は示している。

「行い」ではなく、「聞く」ことに徹したい。

 

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(29)

 

 

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