信じるすべての人に与えられる神の義
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。(ローマ3:21-22)
「自己肯定感」という言葉を、昨今よく目にする。
自分は自分でいいのだ、自分という存在はそれだけで価値があるのだ、という安心感のようなものだろうか。
植物が良い土壌にあってこそ良く育つように、たしかに「自己肯定感」は人が生きる上での大切な土台といえるだろう。
ただし、その「自己肯定感」が十分に満たされている人というのは、どれくらいいるのだろうか。
これだけあちこちで語られるということは、それが不十分であると感じる人が多いということではないか。
かく言うわたし自身も、その一人だ。
「自己肯定感」の低さに悩む人は、おそらく十中八九、親との関係で悩んできたことだろう。
意識するしないに関わらず、親に認めてもらいたい、愛されたい、受け入れられたい、といった心理を、その根底に持ちながら生きてきた。
そしておそらくは、親もまたそうだったのだ。
こうして人間は、愛と受容に対する飢え渇きを引き継ぎながら生きてきた。
その根本的な解決は、ただ聖書の福音が示す「神の愛」に立ち返る以外にないと思うのだが、いかがだろうか。
親に受け入れられるために頑張る子どもと、親に受け入れられているがゆえに頑張る子どもでは、天地ほどの違いがある。
前者はいつまでも幸せになれず、後者はすでに幸せだ。
パウロは、その"頑張り"について、こう書いた。
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(20)
頑張れば頑張るほど「罪の意識」が生じる。
なんという不幸か。
もっとこうなれば、まだダメだ、の繰り返しだ。
「自己肯定感」どころではない。
しかし、幸いなるかな、神は人間の頑張りを要求してはおられない。
むしろ、それがいかに無駄であるかを示しておられる。
「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」(マタイ5:36)
神が求めておられるのは、わたしたちが頑張って神に辿り着こうとすることではなく、神が差し出された赦しの御手を素直に受け取ること、それだけだ。
神のひとり子イエスが、あなたの代わりに十字架上で処刑された。
ゆえに、あなたはもう罪に定められない。
これこそが、神があなたを愛しておられる何よりの証拠である。
そのことを信じて神の御手を握りなさいと、聖書はすすめているのだ。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。(23-25)
肩の力を抜こう。
誇り高ぶりの「行い」の世界から、降りよう。
神ははじめから、わたしを愛し、受け入れておられる。
ハレルヤ。
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。(詩篇131:2)