アブラハムの信仰に倣う人々
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ4:16)
パウロは、3章で次のように述べた。
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。(ローマ3:28)
そして4章では、その例証としてアブラハムを取り上げる。
「私たちの父はアブラハム」(ヨハネ8:39)と公言するユダヤ人たちを説得するのに、これ以上の人物はいない。
「あなたがたが父と尊ぶアブラハムを見てみなさい、私の言っていることが間違っていないとわかりますよ」というのが、パウロのスタンスだ。
パウロはまず、「義認」について指摘する。
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。(3)
アブラハムが義と認められたのは、律法を行ったからではなく、神を信じたその信仰によったのですよ、というわけだ。
続いて、「割礼」にふれる。
どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。(10)
「割礼」を義と認められる条件のようにみなしていたユダヤ人たちに、アブラハムが義と認められたのはまだ割礼を受けていないときだったでしょ、と示した。
ここで、創世記の記事から、アブラハムの出来事を時系列的にまとめてみよう。
- 【創世記15章(75歳)】「子孫が星のようになる」という神のことばを信じ、義と認められる。
- 【16章(86歳)】女奴隷ハガルによってイシュマエルを得る。
- 【17章(99歳)】神によりアブラムからアブラハム(「多くの国民の父」の意)に改名。割礼の指示を受け、家中のすべての男子に受けさせる。妻サラに男の子が生まれるとの約束を受けたが、笑った。
- 【21章(100歳)】サラによりイサクを得る。
彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(18-22)
先の時系列でわかるように、パウロが3節で示した例示はアブラハムが75歳のときのもので、19節のそれは100歳のときのものだ。
このタイムラグを、パウロはまったく問題にしていない。
なぜなら、パウロの論点は、「義と認められる信仰とはどのようなものか」にあるからだ。
それをパウロは、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」る信仰だと示している。
ただ、創世記をよく見ると、アブラハムはサラが男の子を生むという約束を聞いたとき、すぐには信じていない。
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」(創世記17:17)
しかし、彼はその後、戸惑いながらも考えたのだろう。
これまでの神の真実、数々の恵み。
そして、はっきりと決断した。
「神を信じよう」と。
神を信じるとは、信じられるかどうかではない。
信じるかどうかだ。
意思的決断だ。
アブラハムは「望み得ない時に」、つまり、とうてい信じられそうもないときに、信じた。
「神は、かならず約束を守られる。そして、それができるお方だ」とした。
これが「神に栄光を帰す」(20)ことだと、パウロは書いた。
神を賛美することばかりが、神に栄光を帰すことではない。
神の約束を堅く信じることもまた、神に栄光を帰すことなのだ。
わたしたちもまた、「アブラハムの信仰に倣う人々」として、神を信頼して歩みたいものである。
パウロは、アブラハムのこの信仰を、キリストへの信仰につなげていく。
しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23-24)