みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

私たちは神を喜んでいます

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(ローマ5:11)

 

この5章から、パウロはアクセルを踏んで加速するかのように、どんどん福音の奥義へと入っていく。

神との平和、神の愛、神の恵み、永遠のいのちといった本書の主題を、つぎつぎに提示している。

 

9~11節には、興味深い“三段階”が示されている。

 

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。(9)

 

第一は、「神の怒りからの救い」だ。

 

敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。(10)

 

第二は、「御子のいのちによる救い」だ。

 

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

 

そして第三は、「神を喜ぶ」ことだ。

 

「神の怒りからの救い」だけでも、ほんとうに大いなる救いで、感謝なことだ。

わたしたちは罪赦され、無罪を宣告された。

 

しかし、「御子のいのちによる救い」はさらに大きい。

御子のいのちによって新しい歩みをし、御子と同じく神の子として回復され、永遠のいのちにあずかるのだ。

 

最終的に、わたしたちは「神を喜ぶ」者となる。

俗な言い方で恐縮だが、これは"最強"だ。

わたしはキリスト者となってはじめて、教会に讃美歌がある意味を知った。

賛美せずにはおれないのだ。

これはキリスト者だけが知りうる特権ではないだろうか。

 

12節以降では、アダムとキリストの対比が論じられる。

少々難しい箇所ではある。

しかし、気にせずにいよう。

ペテロですら、難しいと言ったのだから。

 

その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。(2ペテロ3:16)

 

パウロの結論は、19~20節にある。

 

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。(19-20)

 

<罪汚れは いや増すとも 主の恵みもまた いや増すなり>

このすばらしい聖歌そのものだ。

 

キリスト信者は、もはや「アダムにある者」ではなく、「キリストにある者」であり、新しく造られた者だ。

アダムに由来する肉の体は死に至っても、御霊に由来する新しいわたしたち自身は、キリストのいのちにあずかった者として死に打ち勝つ。

 

このすばらしい救いを成し遂げられた、神を喜ぼう。

 

それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(21)

 

 

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