走るべき道のりを走り尽くし
「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)
パウロは、エルサレムに戻る途中、エペソの長老たちを呼び寄せた。
それは彼らに“決別の辞”を告げるためであった。
その中で彼は、聖霊によってどの町でも「鎖と苦しみが私を待っている」(23)ことが示されているとしながら、なおも力強く言い切った。
「自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(24)
なんと潔く、気持ちの良い言葉であろう。
「使命」とは「命を使う」と書くが、パウロほどはっきりと自分の使命に生きた人も珍しいのではないか。
ここでの「いのちを惜しまない」とは、いのちを軽んじているわけでもなければ、泡のように生まれては消えるはかないものと捉えているわけでもない。
そうではなくこれは、“いのちを超えるもの”を知っている確信から出ている言葉だ。
パウロはコリントの教会に向けた手紙で、次のように書いた。
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。・・・競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。(1コリント9:23・25-26)
パウロは、地上のいのちに意味があることを知っていた。
目指すものは、空しく消える陽炎ではなく、永遠につながる確かな手応えのあるものだ。
「空を打つような拳闘」ではないのだ。
「罪」の語源は、「的外れ」だ。
的を外れるとは、「空を打つような拳闘」であり、本来的に意味を失っている。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。」(ローマ3:10-12)
キリスト者には、「走るべき道のり」があり、それは素晴らしいゴールへとつながっている。
だからこそ、真の生き甲斐を覚えながら、力強く前進することができる。
感謝。
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13-14)