みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

新しいいのちに歩む

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ6:4)

 

6章は、前半(1~14節)と後半(15~23節)に分けることができる。

とはいえ、問いかけは同じだ。

 

恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(1)

 

私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

 

恵みにあずかったのだから罪を犯しても大丈夫だ、罪を犯すのは仕方ないんだ、と論じる者たちがいた。

それに対しパウロは、ここで問いかけを重ねて反論した。

 

前半では「キリストの死とよみがえり」に、後半では「何の奴隷か」に重点を置いて論じている。

 

私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(5)

 

パウロは、「キリストの死とよみがえり」は「わたしたちの死とよみがえり」でもあるという。

これはパウロ特有の主張のように思える。

ペテロをはじめ初代教会の他の使徒たちは、このようなメッセージをしたのだろうか。

この点において、パウロはことさらに光を与えられた。

彼の手紙が、多く新約聖書におさめられた一つの理由といえるだろう。

 

死んだ者は、罪から解放されているのです。(7)

 

クリスチャンであれば、葬儀で花に囲まれたお顔を拝見しながら、思ったことがあるだろう。

「良かったね、罪から完全に解放されたね」と。

パウロは、それはあなた自身なのだよと、言っているわけだ。

 

大蛇の縛りから抜け出るように、わたしたちはどうすることもできなかった罪の束縛から抜け出せた。

キリストとともに死に、葬られることによって。

だから、わざわざもう一度大蛇に近づく必要はない。

 

15節からの後半では、「奴隷」という言葉がくり返し出てくる。

「罪の奴隷」「汚れと不法の奴隷」となれば死に至り、「従順の奴隷」「義の奴隷」「神の奴隷」となれば義、聖潔、いのちに至る。

重要なことは、かつては「罪の奴隷」でしか歩めなかったのに、いまはそれとは違う新しい歩みができるということだ。

 

神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。(17-18)

 

アダムにある肉のいのちは、キリストとともに葬られた。

いまは、キリストにある新しいいのちによみがえり、新しく歩むことができる。

だから、自分のからだをそのようなものとしてささげよ、とパウロは言っているのだ。

 

以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。(19)

 

 

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