みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

自分のしていることが分かりません

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(ローマ7:15-17)

 

今回、この箇所を読みながら、30年前の記憶がよみがえった。

まだわたしが、イエス・キリストを受け入れていなかった頃の話だ。

 

当時わたしは、聖書に惹かれ、とある教会に少しずつ足を運んでいた。

その日、平日夜の祈り会があり、わたしは参加した。(なんと真面目な!)

全部で5~6人だったろうか。

その内の数人は牧師さんや神学生だったので、わたしはかなり特異な存在だったといえる。

 

そのとき、聖書の学びで取り上げられたのがローマ書7章であった。

専門用語の好きな牧師先生がひと通り話したあと、「どなたか質問はありますか」と言われた。

皆の視線が、わたしに集中する。

場をもたせるサービス精神もはたらいて、わたしは思ったことを率直に言った。

 

「自分で罪を犯しておきながら、それは私ではなく私のうちの罪だとするのは、責任転嫁ではありませんか?」

 

牧師さんがどんな答えをされたのか、覚えてはいない。

ただ、いまでも思うのは、信仰をもっていない人であればだれでもそう考えるだろうということだ。

 

当時わたしは、武者小路実篤をよく読んでいた。

「人間には良心がある。良いことを行えば気分が良く、悪いことを行えば心が痛むのは、人間がそういう存在だからだ。だから良心に従って生きればよい」。

そんな意味のことを武者小路は書いており、わたしはその通りだなと同意していた。

 

パウロは言う。

 

私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

 

そして、こう嘆声を上げる。

 

私は本当にみじめな人間です。(24)

 

多くの人は、つぎのように言うかもしれない。

「まあ、そう突き詰めて考えなさんな。苦しいだけですよ。もっと楽に考えなさい。人間は、良い面もあれば悪い面もあるんですから、それをすなおに受け入れればいいんですよ」と。

 

しかしそれは、神の律法も、神のさばきも、念頭にない人の言葉と言わざるをえない。

いまわたしは、心から思う。

パウロの言葉は、真実であると。

 

だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(24-25)

 

 

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