主イエスの名のためなら
するとパウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」(使徒21:13)
エルサレムに向かおうとするパウロを、兄弟たちは何とかして止めようとした。
しかしパウロは、「死ぬことも覚悟している」と聞き入れない。
まるで、かつてのイエスさまのようだ。
さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。(マルコ10:32)
エルサレムに着くとパウロは、長老たちから「あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かる」(24)ために、誓願を立てている者たちが頭を剃る費用を出してやるよう指示を受け、それに従った。
それでもやはり、暴動が起こった。
そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。(30)
千人隊長は、騒がしくて確かなことが分からなかったので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担ぎ上げなければならなかった。大勢の民衆が、「殺してしまえ」と叫びながら、ついて来たからである。(34-36)
暴力と怒号の中で、担ぎ上げられたパウロ。
このとき、何を思ったことだろう。
神に彼らへの赦しを祈りながら、ユダヤ人たちを深くあわれむ思いだったのではないだろうか。
思えば、パウロほど誤解された人はいない。
神のみこころに反することを教えていると思われていたが、実際は真反対だ。
イスラエルをめちゃくちゃにすると思われていたが、それも真反対だ。
彼は「涙をもって・・・主に仕えました」(使徒20:19)と語っている。
その"涙"の多くは、このような同胞に対するものだったのではないか。
私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。(ローマ9:1-3)
パウロの同胞への愛は、このような状況にあっても変わることなく、せめて一言でも伝えたいという思いとなった。
兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に「少しお話ししてもよいでしょうか」と尋ねた。(37)
いまこの日本においても、まことの神の愛を知らず空しく地上の人生を歩む人たちに対し、少しでもパウロの熱い想いを共有できたらと思う。
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(2テモテ1:7-8)