行きなさい
「私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことが、そこであなたに告げられる』と。」(使徒22:10)
騒動の中、パウロは階段の上から群衆に向かって語った。
律法を熱心に学び、イエスの信者を迫害していた自分が、いかにしてイエスと出合い、異邦人の伝道者となったか。
飾らない、率直な言葉で語っている。
少し話の流れとは離れるが、『使途の働き』を読むと、主からの導きがつねにシンプルな言葉で示されていることに気づく。
今回のパウロの証しにおいても、同様だ。
「・・・主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。』」(10)
「主は私にこう語られました。『早く、急いでエルサレムを離れなさい。』」(18)
「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」(21)
伝道者ピリポのときも、そうだった。
・・・主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(8:26)
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。(29)
さらには、パウロのところに遣わされたアナニアだ。
しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(9:15)
百人隊長コルネリウスには、
「さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。」(10:5)
そのペテロには、
そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。(10:13)
このように、主の導きの声は、つねにシンプルだ。
「行きなさい。行けば、わかる」というスタンスになっている。
これに対する人間側の反応が、しばしば長々しい。
わたしも含めて現代のクリスチャンの多くも、そのようなあり方ではなかろうか。
「みこころがわからない」と言いながらも、ほんとうはわかっていたりする。
ただ、どこかで“逃げて”いるのだ。
その"逃げ"の中でこそ、信仰が試されるというものだろう。
自分で書きながら、歯切れが悪くなるのを感じてしまう。
かつて伝道者として大いに用いられた本田弘慈師は、「すなおに、ただちに、完全に従うこと」と、よく語っておられた。
主との交わりの中に歩みつつ、いつでも身軽に動ける者でありたいと思う。
信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。(ヘブル11:8)
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(詩篇40:8)