みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主の忍耐は救いである

また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(2ペテロ3:14)

 

ペテロは、主がまだ来臨されないのは、ひとりでも滅びることを望まれない「主の忍耐」の現れだと書いた。

 

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(9)

 

エスさまがなさったたとえ話を思い出す。

99匹の安全な羊を残して、1匹の迷い出た羊を羊飼いは探し歩くという話だ。

99匹いるのだから1匹くらい仕方ないか、とはお考えにならない。

 

なぜ今日、この地上にいのちがあるのか?

主イエスを信じ、救われるためだ。

すでに信じている者は、さらにきよめられるべく悔い改めるためだ。

「いつやるの?今でしょ」という言葉が流行ったが、まさに、「いつ悔い改めるの?今でしょ」なのだ。

 

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:2)

 

しかし、その「主の忍耐」にも終わりが来る。

 

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10)

 

いまの天地、すなわちこの地球は、いつか崩れ去り、消え去る、と言っている。

信じ難いようなことだが、聖書はいたるところではっきりそう告げている。

とんでもない教えだろうか?

いや、これこそが真の希望であり、義なる神のなさる正しいみわざだ。

 

しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(13)

 

新しい天と新しい地には、義が宿っている。

そしてこれは、ほかならぬ「神の約束」である。

「主は・・・約束したことを遅らせているのではなく・・・」。

「神の約束」ほど確かなものはない。

 

ペテロは、そのように「主の日」「神の日」が約束されているのだから、もっと伝道に励もうとは言っていない。

より聖く歩むことを追い求めよ、と言っている。

 

このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。(11)

 

ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(14)

 

わたしたちは主を待ち望むが、主もわたしたちを待って忍耐しておられる。

いま一度へりくだり、主の前に悔い改めよう。

 

私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。(18)

 

 

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